*現パロ






「今日からお世話になります」


…なぜ、こうなったのか。




***




重く固まった身体を回しつつ家路につく。今日は一段とジャーファルの容赦が無かった。まあ気持ちは分からないでもない…近々控えている大きな取引で社のこれからが大きく別れゆくのだから。到底一筋縄ではいかない相手だが、その分やりがいもあるというもの。どこか心が躍るのも無理からぬことだ。そんな自分にならば先ずは下地を定めて下さいと大量の書類を眼前へと突き出したジャーファルは大変によく出来た部下だとため息を吐くしかない。元々書類を捌く裁量はあるものの、ジッと座って打ち込むことがどうにも苦手で隙あらばのらりくらりとかわしてきた訳だが…今回ばかりは逃がしてもらえなかった。長時間似たような姿勢でいたために身体の節々が痛んで仕方がない。こんな事を漏らせば年齢について持ち出され、更には生涯の伴侶についても口うるさいまでに言われるに決まっている。親しみと信頼性を持っての会話でも、やはり何度も繰り返されると頭が鈍痛を訴えてくる。自分は別段結婚願望など持ってはいないし、それに対する焦りや憧れも無い。こう言っては何だ
がそういう相手に事欠くことも無いし、
今が充実している分そういった方向への希望が薄いのかもしれない。

「ああ、だが」

だが、一つだけ。
羨ましいと思えるものがある。一人暮らしでは味わうことの出来ない温かみ。灯りの点る家々が建ち並ぶ街を歩いていると、時たま無性にそんな美しい情景に焦がれる己がいる。もし自分に家族というものがあれば、こんな風に柔らかな色に囲まれているのだろうかなどと。微笑ましい光景ながらに自身の世界には無い優しさが溢れる帰路は、仕事で疲れた思考には少々寂寥感の方が勝ってしまう。苦笑しながら慣れ親しんだ邸宅前で足を止める…と、

「ん?」

何故かリビングの一室から灯りが漏れている。もう一度言うが自分は違わず一人暮らしだ。勿論人を招くこともあるが、家主の居ない間に入るような者など思い浮かぶ訳もなく。合い鍵も仕事上の関係で必要に迫られた為ジャーファルには渡したが、その他と問われて出てくる相手もいない。と、すれば泥棒か何かかと考えつくがセキリュティは万全なためそれも無いだろう。…生憎と一つだけ、嬉しくない可能性が残っている。それは正常な思考が飛んでいる間に誰かに合い鍵を渡したという可能性で。自分で言うのも何だが順風満帆な人生を送り、見目能力にも優れている俺の唯一の欠点とも言えるソレ。即ち酒癖が異様に悪いのだ。別にアルコールに弱い訳でも無いのだが一歩、いや一杯の間違いでとんでもない事件を起こすこともしばしば。こればかりは反省すべきだが、いち酒好きとしてはやはり心ゆくまで飲み明かしたい時もあり。好きに空けていくとたちまち意識を遠くにやって、目覚めた時に身に覚えのない場所や人に囲まれること多数。そうした酒に纏わる失態は数え切れず、色
恋といった女性関係についてが大半を占めている。
もしかしたら今回のこの現状も酔った勢いで誰かに判別無いまま所持していた合い鍵を手渡し、今に繋がっているのでは。ぐるぐると巡らせた可能性の中で正直それが一番高そうで。会社で別れたジャーファルが何らかの用事で来ているというのも否めないが、それならば連絡の一つもしてくるだろう。一報も無い携帯は冷たく、自分を笑っているようだ。

「……」

とりあえずいつまでもこんな所でウダウダしている訳にもいかないので決意を一つ、軽く息を吐きながら門をくぐった。扉はオートロックのため施錠の確認は必要無く、日常動作と化した開錠を行い灯りのある室内へと進む。リビングとダイニング、そしてキッチンを連ねた一階と自分の立つ廊下を隔てる扉に手を掛ける。奥からは微かな物音が響いていて、確かに人が居ることを主張していた。ええいままよ、とわざと音を立てて扉を開けば途端に全身を良い香りが包んだ。

「あ、お帰りなさい」

パタパタとスリッパを鳴らしてこちらへと駆けてきた人物は細い肢体に白いエプロンを身に付け、美しい金糸を惜しげもなく揺らしながら自分に微笑んできた。ここまでならまだ予想範囲内だった。だが、


その人物は…男、だった。
しかもまだ少年と呼べるような年頃だ。

(まてまてまてまてまさか俺はこんな少年にまで手を出したのか?酒が入っているからといってそこまで見境無く…いやまあ確かに綺麗な顔をしているがこの子は疑いようもなく男の子だ)

鏡で見なくとも今の自分の顔は青くなっていることだろう。ああ全くどうすればいいこの状況。

「あ!」

驚いた。
また思考の海に沈んでいると突然目の前の少年が声を上げたのだ。何だどうしたと目線を合わせると、少年は深々とお辞儀をした。

「遅くなりましたがお久しぶりですシンドバッドさん」
「!」

顔を上げてまたにっこりと笑った少年に呆然としていると、もしかして俺のこと覚えてません?と疑問を投げかけられた。

「…すまないが」
「や、もう昔に何度か会ったっきりだったんで覚えてなくても無理ないですよ」

それでも申し訳なくてもう一度謝罪すると気にしてませんからと少年は首を軽く振った。それから改めて自己紹介を受け、俺は再び驚きに身を投じる。

「サルージャって…アリババくんか!」
「そうです」

思い出してくれましたか。どことなく嬉しそうにはにかむ少年…アリババは確かに昔何度か会って話もした子であった。その頃彼は非常に幼く母親にベッタリで、初めは警戒してまともに顔も見せてもらえなかったのを覚えている。彼の父親と事業についての交渉を行っていた頃、年若い自分が序列と学びを考慮して足を運んでいた。ある日会社の一角に作られた庭園で母子が楽しそうに遊んでおり、珍しい光景につい好奇心を抑えきれず話し掛けた。その時の子がアリババであり、またアリババの母親であった。社長子息でありながらも後継者争いからは外れていたらしいアリババは、誰の目も気にすることのない自由奔放さと同時に繊細な子でもあった。人の感情の動きに敏感で、特に負の感情に対しては顔を痛ましく歪め泣く子だった。ぴょこんと一房跳ねた髪がチャームポイントな彼は小さな体で駆け回り、こちらがヒヤヒヤさせられる程の冒険をしてみせる。二回目のコンタクトからは初めの警戒が嘘のように懐いてくれた幼い子。しかしその子どもとは数度ばかりの出会いでさよならし
なければならなかった。交渉は見事成功したのだが、それだけが心残りであった。


「本当にあのアリババくん?」
「なんですかそれ」

おかしそうな顔をする金色の少年に確かにあの時の面影はある。ある、が…

(なんともいい成長をしたな)

これは頷くしかない。あの頃とはまた違った可愛らしい様相と足された美しさは両親から良い所を受け継いだものだと感心する。しかしはた、とそこでふりだしに戻る訳だが。

「ところで何故君がここに?」
「え、それも覚えてないんですか?」

なんだ、自分はまだ何か忘れているのか。

「俺、もう少ししたら18歳になるんです」
「うん?それはおめでとう」

おめでたい…おめでたいがそれと現状にどんな関係が。

「約束しましたよね」

ずいっと一歩大きく近付いてきたアリババは下から自分の顔を覗き込んできた。いわゆる上目遣いというやつだが、こんな状況でなければ素直に楽しめたのに。

「シンドバッドさん」
「何かな」




「約束通り、俺と結婚して下さい」





…今度こそ俺は二の句を告ぐことが出来なくなった。






まあその前にと奥の机まで促され、その机上に広がる数々の料理に目を見開く。

「久しぶりに会えるって思ったらついはりきっちゃいました」
「まさかこれ全部アリババくんが?」

照れくさそうな表情でそわそわとする彼はとりあえず座って下さいと背中を押して来、流されるまま俺は大人しく席に着いた。するとまたスリッパを鳴らしつつ食事の場を調え、ちらちらとこちらを気にしながらもテキパキとそれを終える。その手際の良さに感嘆の息を漏らすと、どうやら一通りの家事は出来ると聞く。「シンドバッドさんのために頑張って覚えました」だなんて…そんな可愛らしいことを言われても今は何も応えられない。

(しかしテンプレートでもこう、グッとくるものだな)

まるで嫁入りだ。ああいやあながち間違いでもなかろう。アリババの台詞をそのまま受け取るならば、正にそれ以外の何物でもない。どうぞどうぞとすすめられ、料理を口に運びながら感想を綴っていく。すると良かったとふんわり空気を和らげるものだから…これは何だか色々マズいと頭の端で小さく警鐘が鳴った。





「さて、話は戻る訳だが詳しい話を聞いても」
「ちょっと待ってもらえますか」

美味しいご飯全てをそっくり腹におさめた後に、仕切り直しと向き合った瞬間先の言葉を彼が口にした。真剣な色を宿した彼の目に居住まいを正すと、そんなに構えないで下さいよと苦笑され。

「さっきも言いましたけど、一応ちゃんと約束したんですよ」

結婚というのはまあ大袈裟な表現かもしれませんけど。
ぽつりと零した音は静かに波紋を広げていく。


「だから、」


強い光にあてられる。意思を持つ彼の瞳の輝きが、俺の心臓を鼓動ごと刺し留めていくようで。


「それだけは、自力で思い出す努力をして下さい」


あなたにとっては些細な過去でも俺にとっては大事な約束なんです。お願いしますと頭を下げられる謂われなど無い。ましてや彼にそんな言葉を言わせてしまったことが何よりも…、

「あの、だから」
「アリババくん」

机上で微かに震える彼の手を覆うように自分の手を重ねる。ハッとしたように不安定な顔を上げるアリババを安心させてやりたくて。

「勿論だ。…本当にすまない」

努力は惜しまない。
ギュッと強めに握った手が誓いだと。泣きそうに潤んだ目はけれど、とても綺麗だと思った。





「じゃあこれからしばらくの間よろしくお願いしますね」
「うん?」


急にパッと明るくなった表情でそんなことを伝えられ、不覚にも間の抜けた声が出てしまった。

「シンドバッドさんの所に行きますって俺もう家出たんです」
「え?」

あ、学校は徒歩で行ける距離なので心配しないで下さいね…じゃなくて!

「アリババくん、それは流石に」

考え直すよう言い切る前に、驚くべき内容がアリババから飛び出した。

「家族には了承得ましたし…あ、あとジャーファルさんも協力してくれるって」
「ジャーファルが!?」

あれ、聞いて無いんですかと言われても。これは本当に知らない。

「だってここの鍵、ジャーファルさんがくれたんですよ」

ほらこれ、と出された鍵は確かに自宅のもので間違い無い。今日のプランも組んでくれたんですと嬉しそうに話すアリババくんの声が遠くから聞こえる。嗚呼ということは…、

(やられた!)

あいつめと机に額を打ち付けながら歯噛みする。成る程色んな意味で自分には効果的な方法だ。心の準備も窘める言葉の用意もさせず、翻弄しながら泣き落としに近い方法で一息に詰める。日頃の鬱憤を晴らしつつアリババの希望も完璧に叶えてみせる彼は本っ当に優秀な部下である。感動で前が見えない。


「怒ってます?」
「いいやまさか」

いっそ清々しく愉快な気分だ。クツクツと喉奥で笑いながら、髪を掻き上げる。

「最後に確認しておくが、アリババくんはそれで良いんだな?」
「それが良いんです」

(言ってくれる)



それならばとまずは同居人として、挨拶を含めて握手を交わした。これからよろしく、こちらこそ。同居相手がアリババなら良いかとそんな風に考えてしまう位には、この数時間の間に彼に毒されていたらしい。

「そういえばさっきの返事聞いてませんでしたね」
「何のかな?」

ふふ、とイタズラっぽく口角を上げるアリババくんに首を傾げる。結婚云々は話がついたし、他に何かあったろうか。そうした俺の思考を軽々と飛び越えるのが得意な彼は、とびっきり温かな声音でこう言った。










「お帰りなさい、シンドバッドさん」









「………ああ、ただいま」